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今更ながら、私が鹿実野球部を応援するようになった経緯をお話ししようと思います。かなりの長文になりますが、どうかご容赦下さい。

まず一番最初のきっかけは、やはり1996年の春の選抜優勝です。この当時私は小学校低学年。優勝の瞬間はたまたま高速道路のパーキングエリアのテレビで見ていたのですが、その場にいた大勢のお互い面識がないであろう大人たちが共に喜びを分かち合う姿を見て、子供心に「凄い出来事が起こったんだ」と心を揺さぶられたのを憶えています。

さらにその2年後の夏の甲子園杉内俊哉投手のノーヒットノーラン。96年優勝当時は野球に興味が無かった私ですが、この時は徐々に野球のルールや仕組みを理解し始めた頃。2年前に鮮烈な印象を植えつけた「鹿実」が、またも全国の舞台で凄い事をやってのけたーーー強い、凄い、カッコいいものが好きな男の子が、これに惹かれないわけがありません。自分が生まれ育った鹿児島の名を全国に響かせる鹿実の快進撃に、少年の私は心臓を鷲掴みにされたような感覚でした。

この二つの出来事がなければ、鹿実野球部のファンにはなっていなかったかもしれません。

 

だだ、この後数年間は鹿実に代わり、ライバル樟南が鹿児島の高校野球の覇権を握る事になります。

99年から2003年まで、鹿児島の高校野球空前絶後夏の甲子園5年連続出場。特に最初の2年間は圧巻の強さでした。

まず99年は上野弘文投手と鶴岡慎也捕手のバッテリーに、現在は樟南のコーチも務める青野毅選手が2年生ながら四番に座るという強力な布陣。後にプロの世界に進むこの3人を中心に夏の甲子園ベスト4まで勝ち進みました。敗れた準決勝も優勝した群馬・桐生第一に、上野投手が好投しながら9回表に均衡を破られるという惜敗。私の記憶記憶にある範囲では、この年の樟南が鹿児島県勢で最も深紅の大優勝旗に近かったのではないかと思っています。

翌年も引き続き主砲を務め、エースでキャプテンという立場まで加わった青野選手がチームを牽引し甲子園ベスト8。

秋春の県大会では苦戦しながらも、夏は目覚ましい戦績を修めるその戦いぶりは試合巧者そのもの。まるで「俺たちは甲子園を知っているのだ」と誇らしげに言わんばかりの、チーム全体の確固たる自信を感じました。

先程述べたような「凄い、強い、カッコいい」が好きという子供心の大原則に身を委ねたら、鹿実から樟南に鞍替えしてもおかしくないかもしれません。ですが、私はこの時も樟南よりも鹿実を熱心に応援してました。もちろん全国で戦果をあげる樟南の活躍は鹿児島県民として誇らしくはありましたが、それ以上に甲子園行きを樟南に阻まれた悔しさ、強敵としての憎たらしさの方が、この当時は強かったと思います。私の「鹿実ファンとしての自我」は、むしろこの頃さらに強力に形成されていったといえるかもしれません(笑)

 

鹿実が樟南に勝って甲子園に行って欲しい。そう強く願う気持ちとは裏腹に、鹿実野球部はこの後緩やかに低迷していきます。夏の県大会の戦績は99年から準優勝→ベスト4→準優勝→ベスト8と、決して悪い成績ではありません。ですが、甲子園優勝を経験し常に甲子園出場という結果を求められる名門としては苦しい時代だったのもまた事実でしょう。

02年のチームは本多雄一主将を中心に春の九州大会を優勝した強力なチームでしたが、最後の夏は樟南戦にたどり着く事なくベスト8敗退。この年を最後に、長年鹿実野球部の指揮を振るい続けてきた久保克之監督(現総監督)は「甲子園は近くに見えて遠き処」という言葉を教え子に贈り勇退しました。

 

その翌年からは、鹿実野球部の苦難の時代が始まります。

02年秋からは鹿実のエースとして甲子園出場を果たした竹之内和志監督が指揮を執りますが、その年は外から見ても苦しい台所事情が手に取るように感じ取れました。春とNHK旗で準優勝……という結果だけ見たら決して悪くはありませんが、その内容は「御三家」の最古参である鹿商に決勝でなければコールド負けという大差で敗れるというもの。

エースが打たれても、変える投手がいない。下窪投手や杉内投手の育成に携わった竹之内監督の手腕をもってしても、投手陣の編成が上手くいかない……

この頃は鹿実の長い歴史の中で最も部員数が減り続けた時代。特に03年の3年生は十数人程度という少人数。樟南を始め多くの有力中学生選手が鹿実以外の学校を選んだ時代だったのかもしれません。

だから当時の野球好きな大人たちは「鹿実の野球は終わった、厳し過ぎるし古すぎる。あれでは今の子供は選ばない」と口にして憚らなかったのをよく憶えています。そして、それを聞く度に死ぬほど悔しい気持ちになった事もーーー

03年のチームは結局それまで外野のレギュラーだった強肩の野手を急遽エースに据えるものの、夏は3回戦敗退。久保総監督は前の年に「近くに見えて」と仰りましたが、この年は甲子園がとにかく遠く見えた、遠く感じた一年間でした。翌04年はなんとか立て直し甲子園出場を成し遂げますが、さらに翌05年の春の県大会ではまさかの初戦敗退。これが大きな波紋となり、竹之内監督は責任を取る形で退任。

僅か三年足らずの任期ではありましたが、様々な葛藤を抱えながらも鹿実の苦しい時代を支えた竹之内監督の時代を、私は忘れることができません。

そして、この時代を知っているからこそ、私は「鹿実は終わった」と何度言われようとも笑い飛ばす事が出来るのです。

 

竹之内監督の後を引き継いだのが現在も指揮を執る宮下正一監督ですが、その後も数年は戦績が上向きません。その間に共学化を契機に創部し長澤宏之(現創志学園)監督の下力をつけた神村学園や、「ロッコウ旋風」で全国的な話題になった鹿児島工が甲子園で躍動します。いよいよ「鹿実は終わった」が県民レベルで浸透してきた07年夏、鹿実野球部は久々の県大会決勝まで辿り着きました。

結果はサヨナラ負けで甲子園への切符を後一歩で逃したのですが、私はそのチームに漠然とながらも大きな変化を感じたのを憶えています。

決勝までの勝ち上がりこそ地味な接戦ばかりでしたが、とにかく自信を持って戦っている。必死でボールに食らいつき、泥臭く一点を奪いに行き、水も零さぬような鉄壁の守備で「勝ち切る」野球。何より、グランドに立つ9人の選手が一つの意志を持つように規律、統率が取れた。まるで軍隊のような野球。

ーーー今までの鹿実とは何か違う……変わった?いや、そうじゃない、「戻った」んだ。そうだ、鹿実の野球が帰って来たんだーーー

甲子園こそ届きませんでしたが、私はこの年の戦いぶりに鹿実野球復活の大きな手応えを強く感じました。負けた悔しさよりも、鹿実野球の真髄をその目に焼き付ける事が出来た。その事が嬉しかったのです。

翌年、鹿実は再び夏の決勝の舞台に立ちます。相手は春の選抜に九州代表として出場し、甲子園で強豪平安(現龍谷大平安)と延長引き分け再試合の死闘を演じた鹿児島工。当時高校を卒業し県外に出ていた私は、決勝を見るためだけに帰郷しました。リベンジを成し遂げる彼らの勇姿を、その目で見ないわけには行かない、と。

ロッコウ旋風の余波があり、どちらかと言えば鹿工推しの声が多かった一戦でも、彼らは普段通りの「鹿実野球」を実践しました。プレッシャーがかかる舞台でも……いや、プレッシャーそのものを力に変えるような戦いぶり。強敵鹿工を4ー2で退け、見事一年前の先輩たちが成し遂げられなかった甲子園出場を果たしたのです。

甲子園の舞台では水を得た魚のように、県大会打率2割台だった打線が奮起し、初戦は14得点の大爆発。中でもバスター打法の9番打者田之尻選手の満塁ホームランには驚きました。勝負強さは確かに持ち味でしたが、ここまで長打力があったのかと……

その後の宮崎商・赤川投手との投げ合いでは背番号10のエース岩下投手が魂の投球、報徳学園戦での劣勢の9回に3番森田選手がサウスポー近田投手から放った意地の一発も思い出深いです。

 

ーーーそうか……これが鹿実野球なんだ。だから自分は鹿実野球が好きなんだーーー

 

惜しくも夢の舞台に届かなかった07年、そして夢の舞台で躍動した08年。この2年間で私は鹿実野球をより深く理解し、今まで以上に好きになりました。悔しさから這い上がり努力し続けた選手たち。そして彼らの力を最後まで信じ、厳しく指導し続けた宮下監督。この軌跡を知ってしまったら、もう一生ファンをやめることなんてできません。

 

鹿実の野球は2019年の今日も、古い、時代遅れと言われることがあります。大半は否定的な意見です。技術より精神力を鍛える指導方針はナンセンス、長時間のハードトレーニングは効率が悪い、今時こんな指導は虐待ではないか、と。

しかし、大舞台での彼らの底力を支えるのは、この非効率で時代遅れなこのスタイルです。

「あれだけのことを乗り越え、あれだけのことをやった。だから負けるはずがない」

そう強く思える事こそが、鹿実野球の強みなのです。

一緒に努力し、共に怒られ、時には選手同士で厳しく言い合い、ぶつかり合う。青春時代にここまで本気になれる場所がある事は、幸せな事だと思います。だからこそ、メンバーは選手はベンチに入れなかった仲間のために戦えるし、スタンドの仲間はどこよりも力強い声援で後押しするできるんです。

 

近年は鹿実の厳しさ、過酷さを理解した上で「鹿実で野球がやりたい。鹿実の野球がやりたい」と門を叩く選手が増えて来たと聞きます。ファンとしては嬉しいですし、誇らしく思います。

そして、卒業後に「鹿実でこいつらと野球やれて良かった」というOBの声を聞く度にさらに嬉しくなってしまいます。

 

だから、古いと言われようが、時代錯誤と言われようが、鹿実野球部に鹿実らしく在り続けて欲しい。

ただただ外から見守ることしか出来ない一人のファンに過ぎませんが、私はそう強く願います。